「…ここに、サインですか?」
目の前のデスクには、〔感染症拡大防止対応に伴う休業に関する同意書〕、と書かれた紙切れ。仰々しいタイトルのその書式はいかにも大慌てで作ったらしく、レイアウトも句読点もいい加減だが、明日から私の仕事が無くなる、ということだけははっきり分かった。
「申し訳ないですねぇ、派遣契約で就業場所ってのは明確に決まっているから、在宅勤務とかはなかなか難しいんですよぉ」
「はぁ…そうですか…」
目の前にいるこの覇気のない中年男性は派遣会社の担当者。
(だったら契約書を改定してリモートワークもできるようにしてくれないのかな)
ペンを握ろうとしない私の曇った表情を見て、見透かしたように、男が言った。
「会社さんの方も今大混乱でしょう、すぐに契約書の巻き直しってわけにはいかないみたいなんです、どこも同じですよ」
そう、私は「ハケンさん」。職場の「シャインさん」たちは、みんな優しくしてくれる。けど。結局彼らと私は、全然違う。彼ら自身も余裕のないこの非常時に、「ハケンさん」のことなど気にかけてくれるはずもない。ここでゴネたって、何も変わるはずがない。ため息とともに、デスクに添えられたボールペンを握る。やけに重たく感じられる。
乙は、派遣先会社、北斗物産の事業所再開まで一時的に休業扱いとなることに同意する。
笠谷摩耶
書面の最下部に愛想なく引かれた直線のすぐ上に、私は自分の氏名を記入した。
「休業手当のこととか、そのうちはっきり決まったらまた連絡しますから。まあそんなに気をおとさずに」
飯田橋にある、派遣会社の入った雑居ビルを出る。もう日は暮れていた。四月初旬の緩んだ空気と、曖昧な夜風が頬を撫でた。北区の王子にある実家には、ここからメトロの南北線で、乗換なしだ。
ホームドアのガラスに映る自分の姿を見つめる。なんて暗い顔してるんだ、と自分でも驚く。元々暗そうな黒縁メガネにマスクで、顔立ちだって華やかなところなんてまるでない。おまけにこんなに気落ちしていたら、人を寄せ付けないような負のオーラが出ているんだろうな。
そもそも、なんでそんなに落ち込まないといけないんだろう?実家暮らしで、別にすぐに暮らしていけなくなるわけじゃない。クビになったわけでもない。この厄介な伝染病が下火になれば、またすぐに職場に戻ることになる。だったら、この虚しさはどこから来ているのだろう?
新種のウイルスがもたらす伝染病の大流行で、日本も含めて世界中がパニックになっていたけど、自分も含めてどこかまだ遠い世界のことのように思っていた。だけど、昨日、ついに同じフロアの社員に感染者が出てから、状況は一変した。会社はオフィスの一斉閉鎖と社員の原則リモートワーク化を決定した。
「添田さん、明日から一人で大丈夫かなぁ」
夜道を歩きながら自分の口から出た、独り言に、はっとする。ああ、明日から、あの人に会えないんだ…。
私の職場は、いわゆる総合商社。品川港南口にある本社で勤務している。いや、昨日までしていた、というべきなのかな。石油開発に関する事業を扱っている部署で、私は主任の添田さんのアシスタントをしている。誰よりも仕事熱心で、献身的な添田さんは、いつも他の人のケアを最優先する。定時まではお客様だったり、同僚だったり、あるいは海外事務所の現地スタッフだったりのサポートばかりで、自分の仕事は日が暮れてから。
そんな添田さんだから、私も自然と残業が多くなる。初めは、ツイてないな、と思ってた。他の派遣社員は基本的に定時で帰ることが殆どなのになんで私だけ、って。
でも、周りの人たちから添田さんに向けられる尊敬の眼差しがヒシヒシと感じられるようになると、私自身も誇らしくなってきて、気付いたら残業も苦にならなくなっていた。
「笠谷さん、いつもごめんね、残業つきあわせちゃって。ほんと、感謝してる」
柔らかい笑顔を浮かべながら、少し照れくさそうにいう彼のことを見てると、ここが自分の居場所だな、そう感じられた。
今、私がこんなに憂鬱なのは、どうやら添田さんに会えないから、らしい。何考えてるんだろ、私。あの人の彼女でもないのに…
彼は総合商社のエース社員。能力だけじゃなくて人望もある、少し抜けているところもあってそこが可愛かったりもして、誰からも愛される男性。そして、私みたいな地味女には手が届かない存在…
