品川駅午後六時十五分発の、成田エクスプレス。今日は、終業時刻の六時ピッタリにオフィスを出るって決めてる。あの人が一か月の長期出張を終えて、カザフスタンから成田空港に到着する予定の時刻が、午後九時。
この時刻の特急列車に乗れば、到着ロビーでゲートから出てくるあの人を出迎えることができる。確実に、かなり余裕をもって。そっとパソコンの電源を落として、金曜日のオフィスを後にした。おつかれさまです、という挨拶すら口にせず。気配を消しながら。今日だけは、誰にも呼び止められたくなかったから。
エレベーターの扉が開く。誰も乗っていない。ラッキーだと思って、急いで(閉)ボタンを連打する私の視界に、ダークグレイのスラックスの裾が滑りこんできた。
「摩耶さん、今日は、もう帰るんですか」
「う、うん。急いでるから。閉めるね」
今、一番会いたくない顔と相対して、急に心拍数が高鳴るのを感じる。扉が閉まるとすぐ、その男の子は、私を壁際に追い込むように迫ってきた。男の子の口元が、耳元に寄せられた。
「今日、何か摩耶さん、めちゃくちゃセクシーに見えます」
「べ、別に……」
久しぶりに会うあの人の好みに合わせて、その日私はかなり攻めたデザインの洋服を新調していた。あの人は、私のお尻が好きだって、そう言ってくれた。だから、腰回りがかなりタイトで、お尻の形がくっきり浮き上がるようなワンピースを選んだ。いざ履いてみると、恥ずかしすぎたから日中のオフィスでは、大きめのカーディガンを羽織って隠していた。
あの人を、喜ばせたくてした服装だったけど、目の前のこの男の子まで、興奮させてしまった。呼吸を荒くしたカレが、『壁ドン』の姿勢で私をロックオンしてきた。
「今週、あんまり時間とれなくて、ごめんなさい。怒ってますか?」
迫ってくる身体を手でやんわり押し返すのも気にせず、カレが私の髪や肩を撫でてきた。
「部署の歓迎会だとか、大学のOB会だとかで、全然時間が取れなくって。でも、今日は大丈夫。先輩の社員さんたちの誘いも断ってきました。摩耶さんのために」
「……わ、悪いけど、今日は私、忙しいから」
「俺との時間より、大事な用事ですか?」
「そうよ。じゃあ、またね……」
1階に到着したエレベーターの扉が開く。一気に駆け出そうとする私の左手首を、大きな両手が掴み上げた。
「放して、放しなさいっ!」
「せめて、何の用事か教えてくださいよ」
「……あの人が、添田さんが帰ってくるの、今夜」
「そうなんですか。摩耶さん、その添田って人と付き合ってるんですよね?じゃあ、俺も、挨拶しにいこっかな」
「ダメよ!そんなこと、絶対に……」
冗談に聞こえないその口調に、凍り付いた。その一瞬の隙に、男の子の指が、(閉)ボタンと地下二階のボタンを押すのに気づくのが遅れた。エレベーターの扉はまた、静かに閉じていった。
「はっきりさせましょうよ、摩耶さんを一番喜ばせるのは、一体誰なのか」
地下二階は、荷受係のフロアになっている。定時後に残業する社員はおらず、午後六時以降はいつも静まりかえっている。そのフロアの奥にある多目的トイレへと、無理やり連れ込まれた。
……この男の子と二人でその場所を訪れるのは、実は初めてじゃなかった。この新入社員(名前は西條君という)のカレに、これまで三度、仕事帰りにここで犯された。
犯された?という表現に、少し抵抗を感じないではないけれど、それで間違いないと思う。少なくとも自分で求めたことじゃ、なかったんだし。
添田さんという素敵な先輩社員と交際していながら、どうして西條君のことを拒むことができないんだろう。秘密を握られて、脅されたから?
それも、半分しか当たっていない。秘密はたしかに、握られていた。でも、それで脅されていたかというと、そんなことはなかった。
西條君と私の関係は、出会い方からして、異常だった。異常な状況の中で出会ったうえ、カレ自身が心の中に異常なものを抱えていた。そうしてカレの中の「歪み」は私自身の「歪み」まで引き出して、こじれていく一方だった。
多目的トイレの中。押し問答をしながら、衣服を少しずつ剥がれていく。あまりに抵抗すると、揉みあう中で、せっかく用意した洋服が、破れてしまうかもしれないから。そしたら添田さんに会う時、すごく困るから……
私は、身体を奪われることに関して、上手に自分を言いくるめることに、慣れすぎている。そのことに気づいて、唖然とする。
自分が今何をしているのか。なんでこんなことになってしまったのか。こんな風に墜ちてしまわないで、平穏な生活を送れることは、どうしてできなかったのか。そして、目の前の、この男の子は、私にとって一体、何なんだろう……
堂々巡りの考えが、頭の中を泡のように浮かんでは消えていった。