「先生、さっきまでの威勢はどこにいっちゃたのかな?」
「震えてるよ、大丈夫?ショックでお漏らししそう、って顔だよ?」
放課後の教室で、二人の男子生徒が、スマホで動画を再生し、担任の女教師に向けて突きつけている。映像を目の当たりにした女教師は、透けるように白い肌を蒼ざめさせている。
「教室で、実の弟君とこんなことして、スキャンダルだよ、これは」
「どういうことか、説明してくれないかなぁ、里穂センセ」
「ち、違うの、こ、これは…誤解よ…違うのよ…」
女は、弁明を試みるも、やがて言葉に窮して黙り込んでしまう。憂いを帯びた奥二重から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
「おいおい、いい大人が泣きべそかよ。そんなので許されると思ってるの?」
「純平との関係について、先生の口からきっちり説明してもらわないと、僕たち納得しないよ?そうじゃなきゃ、明日のホームルームでみんなに見てもらうけど?」
「…ぅぅぅ、それは、それだけはやめて。ねぇ、このことは、秘密にして、お願い…」
「まぁ、先生の説明とその後の態度次第ってところかな」
「………事情を話したら、許してくれるの?」
「ああ。ほら、洗いざらい話しな。実の弟とこういう関係になった経緯を。事細かくさぁ!」
「…先生と純平は、まだ小さかった頃に、両親を亡くしたの。それから、叔父の家に、引き取られたんだけど、それで…」
女は、強いられて自分と弟の半生を語りはじめた。それが、転落の始まりであった。
女の名前は、華谷里穂。歳は二十五歳。都内にある共学の進学校、星園学園の英語教師だ。二年B組のクラス担任でもある。意志の強そうな奥二重の瞼、絹のように滑らかな黒髪の美女は、その名のとおり学園の華だ。際立って細い手足や肩のシルエットとは対照的に、豊かな肉付きをした尻は男子生徒のうっとりとした視線を集めている。
華やかな外見と同時に、どこか憂いを帯びた、影のある雰囲気を漂わせた美女は、当然のように、男子生徒のみならず、同僚教師や父兄の間にも熱烈なファンが多数いる。
里穂の実の弟である純平は、今年からこの学園に入学した。マドンナ教師と一つ屋根の下で暮らす弟は、学園内で羨望の的だ。とりわけ、男子生徒たちにとっては。
ある日の夜。中間試験の採点で残業していた里穂がようやく帰途につこうと職員室を出た。星園学園では、最後に退出する教師が、館内に生徒が残っていないかどうかを確認して回るルールとなっている。その日は、もう二十一時頃で、残っている教師は里穂だけだった。
里穂が純平のいる一年生の教室に差し掛かると、数名の生徒たちが駆けだしていく後ろ姿が目に入った。
(え、こんな時間まで、何をしていたの?)
星園学園は、都内でも有数の進学校だ。生徒たちは皆勉強熱心で、遅くまで教室で自習して帰る者もいる。だが、いくら何でもこの時間は遅すぎる。不審に思って、生徒たちがいた教室の方へと向かう。
すると、微かに男子生徒のすすり泣きの声が聞こえてくるではないか。教室は消灯済で、薄暗い。窓から差し込む街灯の光でかろうじて中の様子が確認できる。少しずつ、目が慣れてくる。教室の隅に、人影を認める。
「そこにいるの?誰なの?」
呼ぶ声には応答がない。だが、微かにすすり泣きの音だけが聞こえる。恐る恐る人影に近づく。やがて、その黒い影の正体が明らかになった。
「純平!何があったの、一体…?」
取り乱した様子で、里穂はうずくまった弟の元へ駆け寄った。苦しそうに腹部を抑えている。街灯の光に照らされた学生服に、無数の足形がついていることが視認できる。
(まさか…いじめ?)
里穂は、取り乱した様子で叫ぶ。
「ゆるせない…誰がこんなことを⁉」
落ち着いた性格の里穂であったが、純平のこととなると、まるで別人だ。
二人の姉弟が両親を飛行機事故で無くしたのは、里穂が十六、純平が七歳の時。子供だった二人は、父方の叔父、権田繁晴の元に引き取られることになった。
里穂と純平の父は、資産家、権田家の長男として生まれた。ある保守系政治家と緊密な関係を持ち、戦後から高度成長期にかけて地上げや公共工事の斡旋などの脱法的なビジネスで富を肥やした家系だった。
大学で政治哲学を学んだ父は、政治家と癒着する実家と反目した。対立は、父が大学卒業後に左翼系のジャーナリストである女性(のちに里穂と純平の母となる)と結婚したことだった。以後、父は母型である華谷の姓を名乗り、また権田家の事業は弟の繁晴によって継承されることとなった。
孤児となった姉弟を引き取った権田繁晴は、当初は優しい叔父だった。だが、酒に酔うとまるで別人に豹変してしまう。
ある日、泥酔した権田は、まだ高校生であった里穂の肉体に手を出した。里穂の寝室に忍び込んだ権田は、無理やり少女の四肢を縛り付け、その処女を奪った。少女は、ショックと、恐怖と、羞恥のあまり、誰にも助けを求めることもままならなかった。里穂が泣き寝入りするのを見て、勢いづいた権田は常習的に、少女の寝室を訪れては里穂を犯した。
そんな日々が半年ほど続いたある日、酒に酔った権田は、あろうことか純平もいるリビングで里穂に襲いかかった。激しく抵抗する少女に業を煮やし、逆上した権田がワインのボトルを振り下ろした時、悲劇は起こった。姉を守ろうと走りこんできた純平の首の裏をボトルが直撃したのだ。
リビングの床を真っ赤にするほどの流血だった。家政婦が救急車を呼び、何とか一命は取り留めることができたが、今でも純平の首元から左の顎のあたりには、当時の傷跡が生々しく残っている。
事情は警察や児童相談所にも伝わり、二人は行政に保護された。権田は、本来逮捕されてしかるべきだが、結局は無罪放免となった。家政婦に都合のよい証言をさせ、また地元の警察署長とのコネも最大限利用したのだ。
事件後に発覚したことだが、姉弟には、航空会社からの補償と、生命保険が下りていた。(後見人である権田はこれをひた隠しにしていた)
その金額で、二人住処を得、さらに里穂一人分の大学までの学費を賄うことができた。
二人は都内に見つけた小さな2LDKのマンションで、二人暮らしをしている。教育大学に進んだ里穂は、卒業と同時にこの星園学園で教師としてのキャリアを始め、純平の大学進学資金を用意するため、つつましく暮らしていた。
命がけで自分を救ってくれた弟、一生癒えない傷をその身に背負うことになった弟を守ることこそが、里穂にとっての人生の全てであった。事件後のショックで、活発だった純平は一時失語症に陥り、ようやく回復した今も口数は少ないままで、極端に怯えやすい性格になってしまった。そのことが原因で、弟がいじめられはしないかと、里穂はそればかりを心配していた。
私立である星園学園の学費を賄うのは大きな負担であったが、それでも自分の目の届く範囲に弟を置いておきたかった。良家の子息の集うこの学園なら、不良生徒もおらず、安心して学園生活を送ってもらえる、そう信じていた。それだけに、今夜の事態は、里穂にとって大きなショックであった。
(この学校で、こんなことが起こるなんて…)
里穂に背中を擦ってもらい、純平もようやく落ち着きを取り戻し、ポツリポツリと事情を話し始めた。暴力沙汰の犯人は、二年B組、つまり里穂の受け持つクラスの生徒二人組で、名前を染谷雄星と原口宗介といった。札付きのワル、というほどには見えないが、総じてまじめな生徒の多いこの学園においては、少し浮いた存在で、粗暴な言動が目につく存在だった。
二人は数週間ほど前から、下級生である純平を呼び出しては、里穂のプライベートを根掘り葉掘り聞き出そうとしてきた。初めは、風呂は別々なのか、一緒に入っているんじゃないだろうな、などという他愛のないことを冗談めかして聞いてくるだけだった。だが、二人の要求が常軌を逸してきたのは、里穂と純平が両親とではなく、二人きりで暮らしていることを知られてからだという。
大人しい下級生が、若く美しい女教師と二人きりで暮らしている。そのことに嫉妬と劣情をそそられたのだろう。やがて純平は暴力で脅しつけられ、里穂の下着を盗んでくるよう強要された。初めは抵抗していたが、繰返し殴る蹴るの暴行を加えられ、つい先ほど、それを手渡してしまった…
「…お姉ちゃん、ご、ごめんなさい。僕、抵抗、したんだ。でも、結局無理やり奪われて…」
衣装ケースから盗み出したパンティを差し出すよう求められた際に、純平は逡巡し、抵抗したところ、殴り、蹴られた末、それを強奪されたという。
「あなたは何も悪くないわ。それより、お姉ちゃんの方こそ、気付いてあげられなくて、ごめん、本当にごめん、ぅぅぅ…」
「あいつら、明日は、姉ちゃんの、し、下着の、あ、洗ってないやつを、持って来いって。うぅぅ…」
「そんなことまで…許せない。純平、明日、あなたは学校お休みしなさい。あとは私に任せて。お姉ちゃん、あなたを傷つける奴は誰だって容赦しないんだから」
再び泣き崩れる弟を里穂は胸元に抱き寄せては、幼子にするように頭を撫でた。熱い涙が、里穂のシャツを濡らす。不憫な弟の様子が、胸を締めつける。弟を抱きしめる腕に力が入った。まるでこの世の全ての災厄から守ろうとでもするように……。
