一生顔を合わすこともないだろうと思っていたその男は、商社の課長時代とは全く服装が違っていた。どの子会社に出向になったのかも覚えていなかったけれど、真っ白なスーツを着て、色の薄いサングラスをしていた。普通の会社員をやっているようには、とても見えない。
「初めまして、皆さん。私、兼頭と申します。普段は劇団の座長をやっているんですがね、サイドビジネスで企業の研修会なんかにお邪魔することもありまして、いろいろワークショップなんかを提供しているんですよ。北斗物産さんとは、縁があって、営業トークのロープレとかプレゼンの指導とかもやらせてもらってます。結構、評判いいんですよ」
なんという大胆な嘘だろう。名前や経歴も含めて、ひとかけらの真実も含まれていないのに、男子社員の方は、特に疑う様子もない。自身満々で言い放つ元上司に空いた口が塞がらない。
「で、今回はセクハラ防止のワークショップを、ということでしたかな、鈴原さん?」
「はい。それでお願いします。あ、そこの女性、笠谷摩耶さんというんですけど、アシスタントを買って出てくれていますから、自由に使っていただいて構いません」
「なるほど、それは都合がよいですなぁ。しっかり身体張ってもらおうか」
サングラスの奥から、笹山の眼が透けて見えた。口元は笑っているけど、三白眼がカッと見開いて私を睨みつけている。今までの人生で、一度も向き合ったことが無いほど強烈な、悪意に満ちた視線に気圧された。
自由に使って?
身体を張って?
嫌でも、卑猥な想像が頭を充満してしまう。恐怖で鼓動が、痛いほど高まる。
兼頭(と偽名を名乗った笹山)が、声を張り上げた。
「まず初めに、強調しておこう。セクハラっていうのは、絶対悪だ。弁解の余地はない。それに手を染めた人間は、キャリアも人生も全て、パーだ」
壇上を歩きまわりながら、芝居がかった調子で両手を大きく開いて言った。そうして、途端に小さく、囁くような調子で続ける。
「ところで、諸君。セクハラって、言葉の意味は、正しく理解しているだろうな?そう、セクシャルな、ハラスメント。性的な、嫌がらせってことだ。誤解しないでくれたまえ。性的なことが何でもかんでも悪いって言ってるわけじゃぁ、ないんだ」
イヤな予感がしてきて、腋の下から汗が噴き出してくるのを感じた。
さっきの、お調子者の坊主頭が手をあげて言った。
「じゃあ、どういうことがセクハラになるんですかぁ?」
「いい質問だ!そこだよ、そこなんだよ。セクシャルか、ハラスメントか。それが問題だ。なんてな」
偽講師が、演壇の上からステップを踏むようにしてこちらへ駆け寄ってきた。
「キャッ!何を」
左右の肩が掴まれて、引っ張られた。男の子達に向かって、カットソーに包まれた胸を突き出す様な姿勢になってしまった。
「諸君の会社員生活。セクハラの線引きを見誤ることは、致命的だぞ。だが、同時に、人とは失敗からしか学べない生き物でもあるだろう?」
芝居ががった煽り文句が続く。不安な気持ちが、私の腋の下を一層湿らせていく。
「今日、君たちがこのワークショップで与えられるのは、言うなれば『失敗する自由』だ!喜びたまえ。この摩耶君が、全女性を代表して、身を挺して君たちに教えてくれるぞ。セクハラのボーダーラインとは何たるかを。さぁ、拍手!」
大歓声が上がった。さっぱり、何のことだか分からなかったけど、男子達の顔が、みんな一様にイヤらしくにやけているのを見て、徐々に理解していった。私は、ふざけた茶番を口実に、セクハラ行為の実験台にされようとしているようだった……
笹山が研修生たちに指示して、研修室のテーブルレイアウトを変えさせた。いわゆる教室スタイルの並びから、「コ」の字型の配置へ。その真ん中の空間に、私は一人で座らされた。
周りを取り囲む長机の向こうには、男性社員達が、これからどんな刺激的なことがあるのだろうと目を輝かせている。まるで裁きにかけられる罪人の気分だった。
「まずは、ケーススタディからだな。私と摩耶君のやり取りを見ていてくれよ。それでだ。これはダメだ、セクハラじゃないか、って思った者は手を上げてくれ。さぁ、始めるぞ!」
一人着席させられた私と、男子社員達の取り囲む長机の、その間の空間を歩き回りながら、聴衆を煽り立てる。そうして、クルっと私の方に向き直ると、大袈裟な身振りと口ぶりで、
「おや?摩耶君、どうしたそんな蒼い顔をして?どこか具合でも悪いのかね?」
とっさに話を振られた。どう返せばいいのか分からず、目を泳がせていた。すると、私の背後に回り込んだ笹山が、私の肩に手を置いて、思いきり顔を寄せながら言った。
「もしかして、今日、あの日だったかぁ?ほら、あの、月に一回の」
「くっ……な、何を言ってるんですか」
周りを見回すと、苦笑しながら、手を上げる男子社員の姿が目に入った。
「おおっと。早速手が上がっているな。じゃ、そこの君。このやり取りの、どこがどうセクハラだと思うんだ?」
「そりゃ、だって、生理の話なんて、そんな大っぴらにするもんじゃなくないですか?」
「やれやれ。君は、私の話を聞いていたかね?たしかに生理っつうものはセクシャルな話題だよな。でも、肝心なのは、それが嫌がらせかどうかだろ?女性が嫌がってなければ……」
「い、嫌がらせです。私、すごく不快でしたから!」
我慢できずに、私は割り込むように叫んだ。
「おおぅ、そうか、そうか、失礼、失礼。レディを怒らせちまったなぁ」
悪びれもせずに、大袈裟な手振りで、笹山が舌を出した。これで、この例は終わりだ。こんな不愉快なことが、あと何回続くのだろう。そう思った瞬間、壇上から見物している鈴原主任から、信じられない言葉が投げかけられた。
「それも捉え方次第じゃないでしょうか?言い方はともかくとして、女性は男性と違って生理のせいで百パーセント実力が発揮できない時もあります。だからオープンな態度で接してくれる上司は、考え方によってはありがたいと思いますけど」
「だ、だからって、そんな……」
うまく否定する言葉が出てこないでいると、研修生たちが呟き始めた。
「たしかに、女子っていきなり機嫌悪くなったりして、男の眼から見たら謎な時あるしな。生理かどうか、確認したいけど、聞くのも気まずく思っちゃうよ」
「秘密にされるより、オープンにした方が、人間関係うまくいきそうっすね」
「そうそう。ちなみに、我が社には生理休暇、っていう制度もあるの。そういうものを積極的に利用できる職場にするためにも、男性の上司には今の兼頭さんくらい、あけっぴろげの方がいいんじゃないかなって、人事部の立場からも、そう思うなぁ」
自分の常識や感性がどんどん否定されていく気がした。
さらに、またあの坊主頭が余計なことを言い出した。
「あ、思い出した。そういや、大学のサークルのサバサバ系の女子なんかは、自分の生理周期、公言してたなぁ。この時期の私をイラつかせたらぶっ殺すかんね、とかなんとかいって」
今の若い子って、そんな感じなのか。でも、そんなの私には絶対無理。でも……
「それはナイスアイディアじゃないか!しんどい思いをしている女子社員をスマートに気遣いできる職場、素晴らしい。摩耶君。まずは君の生理周期をみんなに知ってもらうところから始めようか。ほら、諸君、メモの用意だ!」
「だ、誰がそんなこと、言うもんですか。頭、おかしいんじゃないですか!」
「そんなにイライラするところを見たら、摩耶君、もしかして今、ほんとに生理中かい?」
「……違います」
「ああ、それならよかった!今日生理だったら、これからのプログラムに支障が出るかもしれないところだったからなぁ」
笹山の言葉が、私をひどく動揺させた。
もし生理だったとしたら、支障がある……って、何の話?そんな、際どいことまで、させるつもりなの?いったい、何を……
もう私の味方ではないことがはっきりしているのに、それでも同性の先輩社員にすがりつきたくなる。懇願するようなまなざしを、鈴原主任の方に向けると、絶望的な光景が目に入った。
鈴原主任の背後の、大きなモニタ。そこに添田さんと私が見つめ合って立っている映像が大写しにされていた。動画は、再生されておらず、静止していた。でも、三角の再生ボタンのうえに、マウスカーソルが乗っかっていた。銃口をこめかみに向けられているのと同じだった。
男性社員の視線は、私に集中している。モニタの映像に目を向ける者は、誰もいないように思えたけど、それもいつまで続くか分からない。もし、いま、鈴原主任が何か口を開いたら、みんなの視線が、一斉にモニタの方に向かってしまう……
私は、最後には脅しに屈した。
「何を、言えばいいんですか……」
「そうだなぁ、まず前に生理がいつあったか、だいたい何日置きで来るか、次はいつ頃来る予定か、だな」
誰にも、添田さんにさえ話したことのない、身体の事情。それを、たくさんの、名前も知らない男の子たちに対して、開示させられた。スカートの裾をくしゃくしゃに握りしめながら。