まだ早朝だった。でも母はもう起きていて、リビングで私の帰りを待っていた。きっと質問攻めにあうだろうな。そう思っていたが、家に帰った私の顔を見ると、
「まったく、こんなご時世にどこで遊んでたのよ。寝てないんでしょ?昼くらいに起こしてあげるから、寝てなさい」
とだけ言ったきりだ。
どこか安心したような顔をしていた。母は、昨夜私が大人の女になったことを、悟ったのだろうか。色々問い詰められなくて、ホッとするが、その反面、初体験について、同じ女として母と語りあかしてみたいな、そんな気分になっている自分に気づくと、可笑しくてふと笑いが込み上げてきた。
昨夜、添田さんと眠ったのはほんの二、三時間。さすがに、眠い。もう少し眠ろうとベッドに飛び込んだが、眼を閉じたら昨日の光景が瞼の裏に蘇ってくる。ほんの少し、股間がひり付く感覚が、彼の存在を思い起こさせてくれて、愛おしい気持ちになる。
結局一時間ほど布団の中で悶々とした後、私は起き上がった。
月曜日にはまた彼に会える。どんなお洋服で、どんな髪型で、あの人に会えば?添田さん、どんなファッションが好きなんだろう?聞いておけばよかった…。
クローゼットを開けば、中の洋服たちは、一様にくすんで、パッとしない。まるで昨日までの自分自身そのものを見ているような気分になる。今の私は、あの添田さんの女。地味で、暗い私とは、昨日でもうお別れしたい…。
結局迷った末、新しいお洋服を買いに出かけることにした。
「あら、どこ行くの?」
玄関で母に声をかけられた。
「あの、お洋服、買いに…」
「マスクだけはしっかりなさい。あと、なるべく手すりとかに触らないで。そんなに混んではいないだろうけど、気を付けるのよ」
「うん、そうする」
「かわいいの、見つかるといいわね」
玄関先まで見送ってくれた母が、やけに優しい笑顔を見せながらいう。母は、私の変化に勘づいている。私はそう確信した。
始発駅の王子から、路面電車の都営荒川線に揺られて東池袋まで。自宅からだと、池袋のサンシャインシティが手近なショッピングエリア、ということになる。もっとも、人込みの苦手な私は今まで足を運ぶ機会は少なかったけれど。
街を出歩くことに関して、少し不安はある。だけど、もうまもなく政府が緊急事態宣言を出すだろうと言われていて、そうなると大型の商業施設は軒並み閉鎖される。ネットショッピングもいいけど、月曜にはまた彼に会う。確実に、納得のいく恰好で彼に再会したかった。
路面電車の中は、新型ウィルスのせいで、乗客もまばらだし、複数で乗車していても、みんな押し黙っている。ふと、ドアのあたりで向かい合った大学生くらいのカップルが視界に入った。お互い何も語らず、じっと互いの眼を愛おし気に見つめ合っている。二人だけの世界に入りこんでいて、視線が全くぶれていない。
男の子の右手は女の子のワンピースの腰のあたりに添えられ、軽く抱き寄せるような姿勢。初めよく見えなかったけど、女の子の右手は、男の子のスプリングコートのポケットの中に不自然な恰好で潜りこんでいる。
私の眼は、その女子大生の腕に、釘付けになった。ほんの微かだが、ポケットの中で、女の子の手が蠢いて、「それ」を愛撫している。いや、断言はできないけど、私にはそんな風に見えた。
言葉を交わさず、視線だけを交わしながら、愛する男性の「それ」を撫でさする。昼間の、公共交通機関の中で。たしかに、大胆だ。だけど、少しも下品には映らない。少なくとも今の私には、何か神聖な、祈りのような行為にすら思える…。
私は、身体にポッと火が灯ったような感覚を覚えた。どうして、今ここに、私の隣には添田さんがいないのか。彼の固く、反り返った男性器の感触が、生々しく蘇ってくる。じれったい気持ちが辛くて、身体を擦りたくなる。でも、さすがにそんなことはできない。膝丈のスカートの裾をくしゃくしゃにしながら握りしめて堪える。彼の不在が、数時間前の帰り道よりも一層激しく胸を締め付けてきて、気付けば涙が一筋、頬を伝っていた。
そうか。これが、恋なんだな。二十五歳になるまで、知らなかったけど。過ぎ去ってしまった青春の日を、死に物狂いで取り返そうとでもするように、私の心は彼を求めて叫んでいる…。