[あらすじ]
私の名前は、笠谷摩耶。派遣社員。派遣先の会社は例の新型ウィルス感染爆発の影響で全館閉鎖。契約の都合で、在宅勤務も認められず、一時休業状態に。ひそかに好意を寄せる男性社員から、自宅で仕事を手伝ってほしい、と言われてから、私の人生は大きく変わってしまった。

凌辱専業作家が描く、女性一人称作品。「拗らせ女子」が語る、甘く、切なく、狂おしい奈落。

2026.01.11 永井 亮
女性一人称、ハード
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ドギマギしながらも、引継ぎは、順調に進んでいった。元々、飛びぬけて優秀な彼のことだ、私がやっているような仕事など、難なくこなしてしまうのは当然だ。夕方、十八時頃には、私のルーティンはあらかたマスターしてしまった。この緊張と不安の空間から、解放されると思うと、正直ほっとする気持ちもある。でも。これで添田さんがもう私を必要としなくなったら…。まだ私にしかできないことが残ってはいないかと、必死で探している自分がいた。

「今日はほんと助かったよ。というか、笠谷さんに世話になりまくってたんだなぁ、って改めて思った」
「…いえ、とんでもないです」
「あ、そういえば、もう一点だけいい?この辺のフォルダに入ってるPDFってパスワードなんだっけ?」

海外の取引先から届くメールにはことごとくパスワードがかかっていたが、社内のフォルダに保存するときには私がひとつひとつ解除していた。だが、PDFファイルの場合はそうはいかない。ファイルそのものにかかったパスは解除できないので、パスワード自体をちゃんと分かるところに保存しておかないといけない。もちろん、私はそのパスワードの場所を知っている。
「あれ…、おかしいですね、ここにまとめたものがあったはずなのですが、ごめんなさい、ちょっと探してみます」
つい、白々しいウソが口から出てくる。そのパスワードを保管しているファイルの場所を伝えれば、私の役目は終わってしまう。私がそれを思い出さなければ?まだ私はここにいられる。彼はまだ、私を必要としてくれる…。
「んー、ごめんごめん、いいよ、後は気長に自分で探すから、問題ないよ」
「いえ、私も、気になるので、少し、探させてください」
「そっかぁ。でも、そろそろ夜だし、よかったら、夕食、食べていかない?といっても、お店は休業要請で閉まってるから、ピザかなんかの宅配にはなるけど。あ、心配しないで、ちゃんとおごるからさ!」
感謝の言葉を返すべきなのに、何故か私はコックリと頷くだけ。彼の部屋で、二人きりで夕食を食べる、そのことで胸が詰まるような緊張を覚えて、余裕がない。

テーブルを挟んで、二人で一枚のピザを食べている。横並びの時より、いくらか距離があって、すこしだけ緊張が解けた。
「あ、そういえば笠谷さんの口元見るの、ほとんど初めてかも」
そう、いつも、そして今日も、私はずっとマスクをしている。人前にいるとき、外すのは食事の時だけ。食事はいつもお弁当をオフィスビルの中庭で、一人で食べているから誰も私の鼻から下を見ることはないのだ。
「あ、あんまり見ないでください、恥ずかしいです」
顔を見られていると思うと、せっかく緩んだはずの緊張がまた舞い戻ってきてしまう。
「ごめん、つい…」
気まずい雰囲気になりかけた時、添田さんがワインを開けようかといった。
「は、はい、いただきます」
私、アルコールはほとんど飲めない。なのにどうしてこんなに即答したのか、自分でもよく分からない。多分、誘いを断って、これ以上雰囲気を悪くしたくない、そんな気持ちが働いたんだろう。あるいは…
グラスに白ワインが注がれる。多分、この一杯も飲みきれない。無理やり飲んだら、どうなるんだろう。アルコールが喉を下るときのあの焼けつくような感じ。つい、眉間に皺が寄ってしまう。
「…大丈夫?口に合わなかったかな?」
私が全然飲めないことを、添田さんは知らない。
「そ、そんなことないんです。美味しいですよ」
正直、美味しいとは思わない。けど、今夜はなぜか無理してでもこの苦い液体を飲みほしたい。そんな風に思っている自分がいる。酔ってしまいたい。酔いのせいにして、目の前のこの男性に甘えたい。それに、酔った自分を、添田さんがどう扱ってくれるのか、それが知りたい…
身体の反応は、正直だ。全身の血管が、大騒ぎしている。特に、顔から上が焼けるように熱い。きっともう、頬も耳も真っ赤になっているだろう。目の前の添田さんの輪郭も少しぼやけて見えてきた。
「おーい、大丈夫?あれ、あの、もしかして、お酒、苦手だった?」
「そうですよ、添田さんが、無理やり飲ませるから…」
普段の私なら絶対に言わない、いや言えないようなセリフが勝手に湧いてくる。
「えっ、ご、ごめん!ソファで、横になるかい?」
立ちあがった瞬間、よろめいた私の肩を、添田さんの大きな両手が支えてくれた。そのまま彼の胸にほとんど寄りかかるようにして、三歩、四歩と歩くともう壁際の二人掛けソファだ。彼は丁寧に私をソファの上に横たえると、水を取ってくるといって背中を向けてしまった。私は、横になりながら、腕を伸ばしてその指を掴んだ。強くその手を引くと、彼は腰を落として、私の顔を覗き込んでくれた。
水なんか要らない、無理に酔いを醒まそうとしないで。それよりも、近くで手を握って、ひたすら大丈夫?大丈夫?と言い続けてほしい。言葉にはしないけど、眼で必死に呼びかけた。
こんな安っぽい手段に訴える、面倒くさい私に、怒りもせず、少し慌てている彼の様子が、本当に愛おしい。
今日、私は、本当にどうかしている。それを自覚してもなお、酔った自分の暴挙を、なすがままにしているもう一人の自分がいた。

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